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『ニュー・アース』/エックハルト・トール

2008/12/23 Tue

真実:相対的か絶対的か


思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。

だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。

すべての宗教はどれも誤りでありどれも真実で、どちらになるかはどう活用するかで決まる。
エゴの進化に役立てることも、「真理」のために役立てることも可能なのだ。

自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることになる。




過去にこだわる


人間がいかに過去を手放せないか、あるいは手放す気はないかを見事に示した禅僧の逸話がある。

担山という禅僧が、友人の僧と一緒に豪雨のあとでひどくぬかるんだ田舎道を歩いていた。
村の近くまで来ると、道を渡ろうとする若い娘に出会ったが、水たまりが深くて着ている着物が汚れそうだった。
担山はすぐに娘を抱き上げて水たまりを渡してやった。

 そのあと二人の僧は黙々と歩き続けた。
五時間ほどして、その夜の宿になる寺が見えてきたとき、友人がとうとう黙っていられなくて口を切った。
「あなたはどうしてあの娘を抱き上げて、道を渡してやったのか?」彼はそう言った。
「僧というものは、ああいうことをすべきではないと思うが。」

「私はもうとうに娘を下ろしたのに」
担山は答えた。
「きみはまだ、抱いていたのかね?」

この友人のように暮らし、状況を手放せず、また手放す意志をもたずに、心のなかにどんどん溜め込み積み重ねていたら、どんな人生になるか想像していただきたい。
それがおおかたの人々の人生なのだ。
かれらがこだわって心の中に溜め込んでいる過去という荷物の何と重いことか。




あなたが考える自分


 あなたはエゴではない。
だから、あなたのなかのエゴに気づいたからといって、自分を知ったということではない。
自分は何者ではないかがわかっただけだ。
だが何者ではないかを知れば、本当の自分自身を知る上での最大の障害が取り除かれる。

誰もあなたが何者かを教えてくれはしない

誰かが教えてくれるのは概念にすぎないから、あなたを変える力はない。

ほんとうの自分自身には信念も必要ない。
それどころか、信念はどれも障害になる。

認識すら必要ない。

なぜなら、あなたはすでにあなたなのだから

だが認識しなければ、ほんとうのあなたが世界に向かって輝きだすことはなく、埋もれたままになる。
もちろんその埋もれた場所がほんとうのあなたのありかだ。




何が起ころうとも気にしない


何が起ころうとも気にしない。これは何を意味するのか?自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。

「何かが起こる」それはもちろんそのときどきの状態として現れており、つねにすでに存在している。

起こった何かとは中身で、いまという時-時にはこれしかない-の形だ。
その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に心のなかで抵抗せずにいるということである。

起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れる。
あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか?
そうではない。
それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースにするとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。




時間を消去する


人生に言い続けてきたノーがイエスに変わるたび、あるがままのこの瞬間を受け入れるたびに、あなたは時間とエゴを解体する。


エゴが生き延びるには時間を-過去と未来を-現在という瞬間より重要なものにしなければならない。

(中略)

エゴに人生を支配されている限り、二種類の不幸が襲ってくる。
一つは望みがかなわない不幸、もう一つは望みがかなう不幸である。

(中略)

「いま」がとる形に心の中でイエスと言えば、その形が形のない世界への入り口になる。
世界、神とあなたを隔てる障害はなくなる。



目覚めた行動


目覚めた行動とは、外部的な目的(何をするか)と内なる目的(目覚めて目覚めたままでいること)とが調和した行動である。

目覚めた行動を通じて、あなたは外へ向かう宇宙の目的とひとつになる。
あなたを通じて意識がこの世界へ流れ込む。
あなた思考に流れ込んで、行動を導き、力を付与する。

何をするかではなくどのようにするかで、あなたが運命をまっとうしているかどうかが決まる。
そしてどのようにするかを決めるのは、あなたの意識の状態だ。

.・*.・:☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★.・*.・:☆'.・*.・:

わたし達は、きっと「感情」というものを体験しにこの世界に生まれ出たのでしょう。
しかし、その「感情」に反応し、右往左往させるエゴを、自分自身と錯覚することから多くの悲喜劇が生まれています。

エックハルト・トールは、シンプルに「いまに在る」ための具体的な方法、
―つまり、エゴをエゴとして観照するノウハウをこの著書で示しています。

悟りを開くと、人生は確かにシンプルになるでしょう。
逆に、人生をシンプルにすることで、悟りに近づく
道が見えてくるともいえそうです。


ありがとうございます


“A New Earth”- Awakening to Your Life's Purpose/Eckhart Tolle


Keith Jarrett - The Köln Concert (Part 1) January 24, 1975





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『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる 』/エックハルト・トール

2008/12/18 Thu

この本の冒頭には、彼自身の覚醒体験が語られています。



トールは、三十歳になるまで、たえまのない不安やあせりに苦しみ、自殺を考えたことも あるほどでした。

二十九歳の時、ある晩、夜中に目を覚ました彼は「絶望のどん底だ」という強烈な思いにおそわれました。

あらゆるものの存在が無意味に思われ、「この世のすべてを、呪ってやり たいほど」でした。
しかも、自分自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じられたの です。

 「こんな悲惨な人生を歩むことに、いったい、なんの意味があるというのか?
 どうして、 これほど苦しみながら、生きていかなければならないのか?」


----------------------------------------------

  わたしの中にある「生きよう」という本能は、「もう存在したくない、いっそのこと消え てしまえたらいいのに」、という悲痛な願いに押しつぶされていたのです。

わたしの頭の中 を、

「こんな自分と生きていくなんて、まっぴらごめんだ!」

という思いが、ぐるぐると回っていました。


すると突然妙なことに気づいたのです。

「自分はひとりなのか、それともふたりなのだろうか?」

  こんな自分と生きていくのが嫌だとすると、『自分』と『自分が一緒に生きていきたくないもうひとりの自分』という、ふたりの自分が存在することになります。
そこでわたしは自分に言い聞かせました。

「きっと、このうちのひとりが、『ほんとうの自分』なのだ」

  この時、わたしは、頭の中でつぶやいていたひとり言が、ピタリとやんでしまうという奇妙な感覚に、ハッとしました。

 わたしの意識はしっかりしていましたが、わたしの思考は「無」の状態でした。

次の瞬間、 わたしは、まるで竜巻のような、すさまじいエネルギーのうずに引きよせられていきました。
それは、最初はゆっくりで、次第に速度を増していきました。
わたしはわけがわからず、恐怖でガタガタと震えはじめました。

その時「抵抗してはなりません」というささやきが胸に飛びこんできたのです。
すると、 なぜか、恐れは消え去りました。

わたしが観念して、エネルギーのうず、「空(くう)」に身をゆだねると、わたしはみるみるうちに、その中に吸いこまれていきました。
そのあと、 なにが起こったのかは、まるっきり記憶にないのです。

 翌朝、小鳥のさえずりに、目を覚ましました。
まるで生まれてはじめて聞くかのような、 美しいさえずりでした。
目は閉じたままでしたが、脳裏のスクリーンに、さんぜんと輝くダイアモンドのようなイメージが見えました。

「なるほど! ダイアモンドに声があるとするなら、きっとこんな声に違いない!」
わたしが目を開けると、力強い朝日が、カーテンを貫いて、わたしの部屋に降り注いでい ました。

この時のわたしは、そのまばゆい光が「人間の英知をはるかに超えた、無限ななにか」であるということを、あたりまえのように知っていました。

「そうか、この暖かい光は、愛そのものなんだ!」

 わたしの目には、涙があふれていました。

寝床から飛び起き、部屋の中を歩き回りました。
ふだん見慣れているはずの部屋なのに、それまで、そのほんとうの姿を見ていなかったことに気づきました。
目に映るすべてのものが新鮮で、生まれたばかりのようでした。
手当たり次第に、そこら中のものを拾いあげてみました。
えんぴつ、空っぽのビンなど、あらゆるも のに息づく生命と、その美しさに、ただただ驚くばかりなのです。


*************************************

「我思う、故に我あり」ではなく、

それを観照する超越的意識こそが、真の「我」に至るポータルなんですね…





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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

交通事故で悲しむ人

2008/12/05 Fri

究極的に、というか、
本源的には「加害者」も「被害者」も存在しません。

エゴにより分離した、壮大な夢の中で、ゲームのルールを忘れて右往左往しているというのが「現実」ではあるのですが…

というものの、この3次元世界で学ぶ最大の課題は「感情」。
無垢な子供の思いには、心を揺さぶられずにはいられません…

оΟ゜Ο。.・оΟ゜Ο。.・оΟ゜Ο。.・оΟ゜оΟ゜Ο。.・оΟ゜Ο。.・оΟ゜Ο。.・оΟ゜Ο。.・оΟ


交通安全週間のある日、母から二枚のプリントを渡されました。
そのプリントは、交通事故についての注意などが書いてあり、その中には実際にあった話が書いてありました。それは交通事故で加害者の立場で亡くなった人の家族の話でした。

残されたのはお母さんと子供たち、上の子が小学二年生、下の子が五歳の男の子の兄弟です。

この人たちは、事故の補償などで家もなくなり、土地もなくなり、住む家もやっとのことで四畳半のせまい所に住めるようになりました。お母さんは朝6時30分から夜の11時まで働く毎日です。

そんな日が続くある日、三人でお父さんのいる天国に行くことを考えてしまっていました。
(以下、プリントから)
朝、出かけにお兄ちゃんに、置き手紙ををした。
「お兄ちゃん、お鍋にお豆がひたしてあります。それを煮て、今晩のおかずにしなさい。お豆がやわらかくなったら、おしょう油を少し入れなさい。」

その日も一日働き、私はほんとうに心身ともにつかれ切ってしまった。
皆で、お父さんのところに行こう。私はこっそりと睡眠薬を買ってきた。

二人の息子は、そまつなフトンで、丸くころがって眠っていた。かべの子供たちの絵にちょっと目をやりながら、まくら元に近づいた。
そこにはお兄ちゃんからの手紙があった。

「お母さん、ぼくは、お母さんのてがみにあったように、お豆をにました。お豆がやわらかくなったとき、おしょう油を入れました。でも、けんちゃんにそれをだしたら、
「お兄ちゃん、お豆、しょっぱくて食べれないよ。」
と言って、つめたいごはんに、おみずをかけて、それをたべただけでねちゃった。お母さん、ほんとうにごめんなさい。でもお母さん、ぼくをしんじてください。ぼくのにたお豆を一つぶたべてみてください。あしたのあさ、ぼくにもういちど、お豆のにかたをおしえてください。でかけるまえに、ぼくをおこしてください。ぼく、さきにねます。あした、かならずおこしてね。お母さん、おやすみなさい。」

目からどっと、涙があふれた。
お兄ちゃんは、あんなに小さいのに、こんなに一生懸命、生きていてくれたんだ。
私は睡眠薬を捨て、子供たちのまくら元にすわって、お兄ちゃんの煮てくれた、しょっぱい豆を涙とともに一つぶ一つぶ、大事に食べました。

このお話を読み終えたとき、私と母の目から、涙が出てきました。そうして、何度も、何度も、くり返し読みました。
私は、今まで、交通事故は被害者だけが悲しい思いをしていると思っていましたが、このお話を読んで、加害者も、私たち以上に悲しくせつない思いをしていることがわかりました。

毎日、毎日、日本のどこかで、こういう子供たちが生まれているのかと思うと、とてもたまりません。
どうか、お願いです。車を運転するみなさん、交通事故など、絶対におこさないでください・・・・・。





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プロフィール

さんかるぱ

Author:さんかるぱ
アメリカ在住13年。後、大阪に居を構え広い意味での「癒し」に関わる。

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